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花田裕之 (ROCK'N'ROLL GYPSIES)
Interview
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―そのころの花田さんが興味を持っていた音楽っていうのは、ブルージーな感じのするロックですよね。
そうそう、ちょっとアメリカンな感じのものとか。
南と知り合ってどんな音楽が好きなのって聞かれて、「ニール・ヤングが好き」って答えたら「そんなのよりもっと面白いのがあるぞ」ってニューヨーク・ドールズとか、ルー・リードとかイギー・ポップとか貸してくれて。で、そっちのほうをよく聴くようになりましたね。あと、ちょうどパンクが出てきたじゃないですか。ラモーンズとかピストルズとか。
―今まで聴いてらしたものとかなり違いますよね。
うん、衝撃はありましたよ。こういうのもいいなって。
ギターで弾いて楽しい音楽だったんでしょうね、そのころの自分にとって。やっぱり、演奏して楽しいっていうのが大きかったかな。
そうやって南と付き合っていくうちに、広がっていって、大江や池畑くんとかと知り合ったんですよね。井上もね。
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―人間クラブ結成はまだ高校生のときですか。
うん、2年のときかな。俺、2年2回やってるんですよ。だから、普通に行ってれば3年のときだね(笑)。
―それ、理由聞いてもいいものでしょうか。
行ってなかったから。なんか、学校がつまらなくなっちゃって。
ギターは弾いてたんですけど、そのせいじゃなくて、学校自体が面白くなくて。
先生に泣きつけば何とかなるようなことも言われたんですけど、そんな気も失せたっていうか。先生が厭だとか、そういうことだけじゃなくて、友だちづきあいもかったるくなっちゃって。本当に学校そのものがいやになっちゃったんですよ。
―中学生までは「いい子」で来てたんですよね。いい子やるのに疲れちゃったんですかね。
あー……無理してたんですかね(笑)。自分でもよく解らないんだけど、どうしようもなくなって。自分でも歯止めがきかないというかね。親にも悪いと思いつつ……。
―今でいう不登校ですか。
うん、正にそれ。
―唐突ですけど、花田さん、もてたでしょう(笑)。
もてましたねー(笑)。中学のときがいちばんもてたんじゃないかな。バスケやってギターも弾いて、生徒会にも入ってて(笑)。
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―絵に描いたような(笑)。
うん(笑)。俺をモデルに漫画描いてる子もいましたもん。
―そういう、ある意味完璧なイメージっていうのがある中で、花田さんご自身に屈折があったんでしょうか。
あったんでしょうね。「違う」って。だからそういうのを壊したかったんですかね、今思うと。学校行かなくなったのも、そういうのが大きかったかもしれませんね。
―そういう葛藤の中で行き着いたのが人間クラブのメンバーだったんでしょうか。
そうですね……所謂「悪い人たち」と(笑)。
一緒にいて、それまで白けてた自分が信じられないくらいわくわくしたんですよ。話してるだけで、楽しいっていう。
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今まで周りにいなかったタイプで。ませてたっていうか。実際、大江や池畑くんは2歳年上だったしね。
―人間クラブってどういう音楽をやってたんですか?
オリジナルが殆どでしたね。かなりパンキッシュな感じでしたよ。
大江と俺と、南がヴォーカルで、でドラムが池畑くん。ベースは最初違う奴がやってたんだけど、最終的に井上が入ってきて。
オリジナルをやるっていうのも初めてだったんですよ。大江と池畑はその前にバラ族ってバンドで一緒にやっていて、そこではオリジナルやってましたけど。
バンドをやるっていうことが、自分たちのオリジナルをやるっていうことだって感じだったんですよね。南もそういうタイプだし。
例えば南はボウイとかイギー・ポップが好きで、大江は村八分とか好きで。でも、似てるでしょ、どこか。
―根っこが似ている気がします。
決してウエストコーストじゃないっていうか。
―そのころの九州ってバンドシーンが成立している感じかと思うんですが。
博多はね。サンハウスはもう解散していて、鮎川さんがシーナ&ロケッツを始めてたかな。モッズもいたし、山善も活動してたし。
でも、俺たちがいたのって北九州だったから、エリアが違うんですよ。だから交流ができたのはもっとあとになって、博多でもライヴやるようになってからですよね。
―人間クラブは活動期間決して長くないですよね。
うん、1年やってない。
夏のロック大会みたいなのが九州にあるんですけど、それに7月くらいに出て、それでそのあと直ぐにやめたの。やめたというか、自然消滅みたいな感じで。
グランプリみたいなの取れて、キーボードを貰って。で、それをみんなで売りに行って、呑みに行って。それで、そのあと何もなくなりましたからね。
2ヶ月くらい経ってから大江から「やろう」って連絡があって。で、大江とスタジオ入ったりしてました。
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―人間クラブは結成して直ぐにロックフェスに出て、ルースターズはこれまた直ぐにデモテープを送ってって、プロになる気満々だったんですね。
うん、特に大江が凄かったですね。
俺は……そういう気はなくはなかったけど、大江の勢いに付き合ってる感じでしたね。やることは楽しかったんで、毎日練習するのも苦じゃなかったし。
他に誰もやってないことをやっているっていう自信はあったんで、もしこれでデビューできなくても、それはそれで仕方ないなと思っていたし。
―中途半端な部分が自分の中になかったっていうことでしょうか。やっていることに対しての。
うん、そうですね。
大江はデビューするためにって新しいスタッフ連れてきたり、そいつらに頼んで音録ってもらって、それを東京に送ったり。
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そういうことに、俺自身は距離感というか、冷静に見ている部分はあったと思いますよ。ただ、いけるだろうなとは思ってた。この4人ならって自分で思えたからね。このバンドは格好いいなって。
始める前に、結構色々と話し合ったんですよね。どういうことをやっていくか、とか、音楽性についてとか。人間クラブのときは、割とその辺がいい加減で、それに嫌気が差してたって部分もあったから、ルースターズのときは、凄く話し合って。だからやる音楽に関しては、自分がやりたいものをやれてるなって。
―デビュー決まったのも早かったですよね。
うん、俺はまだ高校に行ってましたもん。
―20歳くらいのバンドって、まだ少なかったんじゃないかと思うんですが、例えばレコード会社の思惑と皆さんの気持ちのとの間に温度差があったりはしなかったんですか?
それはありましたよ。若いけど地味なことやってるじゃないですか、俺たちって。だから、向こうはもっと派手に……ポップにって。
GSをやらせたいって言われましたから。俺たちみんな背も高くて、格好良かったから。自分で言うのも何だけど(笑)。
でも、それでは厭だっていうことで。それで話が消えたりね。 |
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―デビュー=上京ですよね? 初めて住んだところって覚えてます?
池尻大橋のマンション。最上階で。
―随分いいところに(笑)。
いや、借りてくれたんで(笑)。で、4人でそこに半年くらいいましたね。
厭なことを忘れてるだけかもしれないけど(笑)、今考えると楽しかったですね。
まあ、呑んだりすると爆発しましたけどね。それなりにみんな溜まってたかもしれない。デビューできても客は少ないし。アルバム出たことは嬉しかったですけど。
―リリースのペースも早いですね。
早いですね。そういうふうにスケジュール組まれてて。
今ならきついけど、そのころは感じる暇もないくらい忙しかったから。
曲を作る大江は大変だったでしょうけどね。
俺はそのころ曲作ってないですから。「作って」とは言われてたんですけど、できなくて(笑)。
最初はね、他のバンドが終わったあとにやってたんですよ。ルイードとかで。
ARBとかバウワウとか、シャネルズとか。そういうバンドのステージが終わってから、ファンの人に残っていてもらって。
あとは、池畑くんがライヴハウスにデモテープ持っていったりして。ロフトも昼の部から。
変なライヴも沢山やりましたよ。宇都宮のラブホテルのラウンジで、パーティーで弾いたり。で、またパーティーの客がなんか怖そうな人たちで(笑)。
俺たちそのころ若いけど強面だったから(笑)。特に池畑くんとか(笑)。
―そうやって伺っていると、楽しそうというか面白そうですけど、やっぱり辛いこともあったんでしょうか。
……あったんでしょうね。忘れたけど(笑)。
俺は楽しんでましたけど。
―手応えを感じたのっていつごろですか。
テレビ出てから。ヤング・OH!OH!とかレッツゴー・ヤングとか。テレビ出たら一発で変わりましたからね、動員とか。テレビの力って大きいなって。
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