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―13、4歳で上京というのは、大きいですよね。
東京だったら、ロックやってる奴もいるんじゃないか、バンドやれるんじゃないかって思ってたからね。今度は進学校じゃないしって。
―改めて学校に戻るのは、勇気が要りますよね。
うん、でもこのチャンスに、自分のことを知ってるやつがいないから、新しい人格を作ろうと思ってましたよね、子ども心に。発症する前の自分がそのまま続いていたらっていう人格を。そういう14歳になってやろうと。調子乗りに戻ろうと。でね、やっぱり親を喜ばせたいっていう気持ちは変わらずあって、だから高校は受験しようと思ってたの。付属校に行こうと。で、東大は付属がないから、東大以外の大学付属校は全部受けたの。で、結局立教高校に進んだんだけど。
―橘高さんは、本当に勉強が出来たんですね。
うん、好きだったの。ゲーム感覚で。はっきりと答のある、数学系は得意だった。だからこそ、答のないものに惹かれたりするんだけど。
―お兄さんとふたり暮らし?
兄貴はそれまで寮に入ってたんだけど、俺が上京するんでアパート借りてくれて。で、渋谷の中学通って。大学の付属校に行ったのは、先ずは親を安心させたいなと。それで、7年間のうちに、自分はなんとかデビューのきっかけを掴みたいなと。
―大阪にいらした頃は、誰かと一緒にバンドをやるとかはなかった?
全然。で、東京に来たら、やっぱりバンドがあった。結局はそこのバンドに入って、学園祭バンドだけど組めて。
―KISSが入りどころというのはよく判るんですけど、今やってらっしゃる音楽との繋がりが判らないのですが。
今でも永遠の1はKISSなんですけど、それは音楽だけじゃなくて生き方とか。だから常に困ったときはKISSを指標にするんですけど。でも、ギターをある程度弾いてくると、もっと難しいこともやっておかないとプロになれないって思ってて。で、音楽雑誌を見て色々聴くようになっていって。
―橘高さんはギタリストになりたかったんですか? それともバンドをやりたかったんですか? このふたつって、同じようですがベクトルが違いますよね。
んー、ポール・スタンレーになりたかったから歌いたかったの。でも、バンドの中でリードギター弾いてたから、必然的に歌は譲らなきゃならなくなっちゃったんだよね。
―最初に組んだバンドがスリージー・ラスターですか?
そうそう。
―それはコピーバンド?
いや、オリジナル。高1のときに組んだバンドで。コピーバンドに誰が金を払うんだって思ってたから、曲を書くのもギターを弾くのも一緒で。ずっとデビューありきでずっと考えてたからね。
―どういうサウンドだったんでしょう?
ハードロックですね。でもやっぱりブリティッシュ寄りかな。マイケル・シェンカーとかレインボーとか、もう何でもありですよね。思いついたものは何でも形にしていって。とにかく曲を書いて、バンドでアレンジをしてっていうのをやってみようと。
―橘高さんはプロ指向だった訳ですが、バンドってそこに温度差があると辛いですよね。
あー、でもね、大阪からやってきて、強い覚悟があるって思われてたみたい(笑)。実際口にしてるし(笑)。
―スリージー・ラスターは立教高校のバンドなんですか?
いや、違う。1年先輩にバンドやってた人がいて、最初はその人と組んだの。そのベーシストが福田純で。当時はタメ年ってことにしてたけど、本当に1コ上だったの。で、そのベーシストは慶應行ってたの。で、面白いことに六大学付属高校って横の繋がりが凄くあって、青学にいいドラマーがいるらしいって純が連れてきて、そのドラマーが連れてきたのが山田晃士。青学で凄く有名なヴォーカリストで。晃士と尾崎豊が青学で有名なヴォーカリストだった。晃士と一緒にスタジオに入ったら、凄かったの。空気がぴーんと張って。それまで妄想の世界で目指していたものが、初めて行けるんじゃないかって手応えになったんだよ。妄想と現実が、クロスした感じがしたんだよね。
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